右往左往

日々右往左往している人の備忘録

『急に具合が悪くなる』(映画)『こびとが打ち上げた小さなボール』感想&日記

急に具合が悪くなる

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真理とマリーのやりとりを見てうらやましくなった。私もこんな物に世の中のこと、自分のことを話せる人が欲しいと。(それは、今いる周りの人に自分が心を開こうと努力をしていないだけなのかもしれない。)

二人のやりとりは同じほうを向きながら対等に語り合っているようで、羨ましくなった。

マリー=ルーの抗う対象が「構造」であると話した際に、その対象をもう少し解像度あげてみない?という真理の提案が良かった。苦しさを「構造との闘い」という大義名分によって乗り越えようとする時、この大義名分を一人で掘り下げたり解像度を上げるのはなかなか難しいことだと思う。なぜなら、その掘り下げた思考の末にその大義名分を失ってしまったら、苦しさの中で踏ん張れなくなってしまうから。

確かに構造には問題があるのだが、何が具体的に問題であり、そしてそのなかでマリー=ルーは殊更どこに問題を見出しているのか。資本主義とは自然やケアを食い潰す構造そのものであり、根本自体を変えられないのであればどうするか?それがマリー=ルーがカフェを導入する際の周辺住民やボランティアの力を借りるということなのだと思った。

鳥のフンの演出に見られるように、偶然もこの映画のテーマなのだと思った。偶然を受け入れる寛容さが私には足りていないと思う。私は鳥のフンをおとされないよう注意深く上を見ながら歩いている人間だ。でもそれと同時に犬のフンも踏みたくないから下も注意深く見て歩いている。私が歩く時はいつもいろんなことを注意深く見ようとしてしまう。
だから、マリーの提唱する理想に感銘を受ける一方で、施設でリスクや責任を鑑みてと訴えるソフィーの気持ちにも同調してしまう。施設の中庭で演劇をするシーンなんて、ハラハラしてしまう。でもあそこでハラハラしても、手を差し伸べすぎては、相手を対等な人間として扱っていないことになるのかもしれない。

劇中劇の「健康な人間は本当に生きているのか」(うろ覚え)という問いかけもとても印象的だった。私は体がなまじ頑丈なため、病弱な人への思いやりに欠けている自覚がある。でもほんとうに私と彼らの間に境界線はあるのだろうか?健康な身体とは一体何なのか?そういう問いが含まれていた劇中劇だった。

今、原作を読んでいる。まだ自分の中で咀嚼しきれていない作品だけど、観に行ってよかったことだけは確実。原作を読んで、また自分の中で感想がさらに変容するかもしれない。それも楽しみにしたいと思えた作品だった。

 

こびとが打ち上げた小さなボール

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圧倒的でした。圧倒的という言葉が最適なのか分からない。読んでいる間ずっと、どこかに希望があってほしいと祈りながら読んだという点ではハン・ガンの『少年が来る』と通ずる、韓国文学の権力を持つ側から抑圧され、暴力を受け、尊厳を傷つけられ続けた人々を描くという姿勢を改めて感じた作品だった。

差別を受け、経済的暴力を受け続けるこびと一家だけでなく、熾烈な大学受験勉強の中に身を置きながらこびとたちのことを無視せずにはいられないユノ、こびとを気にかける中間層主婦のシネ、こびと一家が働くウンガングループを経営する財閥の末息子など、複数の人々の視点から描かれることも小説として面白かった。なにより、最後に財閥の末息子視点から語られる章が一番苦しかった。こびと一家をはじめとする労働者に対して何の疑問もなく見下す末息子。末息子の視点から描かれるヨンスの裁判や日常からは、立つ位置や見てきたものが異なれば、道徳感や倫理観など人が持っていると思いたい善の部分など存在しないのだとまざまざと見せつけられる。

ちょうど先日読んでいた朱 喜哲さんの『バラバラな世界で共に生きる―リチャード・ローティの哲学』を思い出した。そこには、道徳感や倫理観というものはその人が所属するコミュニティによって変わり、人類が普遍的に持つ道徳感や倫理観というものはローティからするとあり得ないと書かれていた。だからといって、他者と繋がることを全て諦めなくても良くて、降りかかる苦しみや痛みが取り除かれるように連帯していくことが必要だという話だと理解しているのだけど(厳密に言うと違うかもしれない)、末息子のようにもう根本からどうしようもないと思ってしまう人間を「あいつ」として線引きせずに扱うにはどうしたら良いんだろうか。末息子もまた二人の兄からの暴力や抑圧を受けていた。そのことに同情したとしても、私にとって末息子の態度は腹立たしく許し難いものであった。

改めてもっと韓国文学を読みたいし、韓国社会を知りたいと思わされた小説だった。社会を決して冷笑せず、苦しんでいる人を悩みながらも描く韓国文学をもっと読みたい。

 

日記

最近ひとつの野望がある。

それは自分から出てきたある問いを解消するために勉強したいことを勉強すること。その問いは「なぜ韓国社会や民主主義は私にとって眩しく見えるのか」。ろうそくデモやペンライトデモ、声を上げる姿勢。もちろん日本と同様にネトウヨなどからの妨害もあるけどその中で声を上げ続け、実際に政権を変えた韓国の民主主義をもっと知りたいのだ。(自分がかつて植民地支配をしていた側の国の人間であるということを忘れずに)

仕事以外で何かやりたいことが定まると(以前はそれがオタク活動だった)、仕事も楽しくなってきて、世の中はめちゃくちゃだけど最近の私は少し機嫌が良い。

気がかりなのは、世の中がめちゃくちゃになると、この私の私的な調査や学びはできなくなってしまうということ。

だから自分にできる、投票以外の民主主義を実行していきたい。

『トロフィー』感想

トロフィー

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公開前から楽しみにしていたトロフィーを観に行った。
宣伝写真がすごく好きな感じだと思ったら石田真澄さんだった。そりゃ良いわ。

映画は東京の朝鮮学校が舞台。主人公のソヒは朝鮮学校で朝鮮舞踊の部活で練習に勤しみながら、趣味の推し活も楽しむ14歳。ある日、日本の学校との交流会で同じKPOPグループが好きな未来と仲良くなる。
仲良くなったソヒと未来。一緒にライブに行こうねと約束し、チケット代のためソヒは家中の不用品をフリマサイトで販売し始める。
朝鮮学校で校長として働く父親の押し入れのなかから、高く売れそうな勲章を見つけたソヒはそれも売ってしまう。

朝鮮学校のことも、朝鮮舞踊のことも、在日の人々のこともなにも知らなかったことが改めて分かった。

父親の本当になりたかったものを知ったソヒが、父親に今からでも遅くないんじゃないと鬱陶しそうに言うあの気持ちには自分自身も見覚えがある。両親の叶えられなかった未来を知った時、なぜかそれが自分のせいだったのではと思ってしまっていた。自分たちを産み育てるために捨てた夢と同じくらい自分に価値があるのか、と。作品のなかで具体的にこのような心情描写があるわけではないが、14歳の訳の分からない苛立ちや戸惑い、いわゆる思春期の姿に共感することで彼女の存在がグッと近くに感じられる。

一方で、彼女のルーツ、つまり在日朝鮮人を背景とした悩みは全く14歳の時の自分とは異なっている。先輩たちの舞台を見て、自分もこんな風になりたいと思った朝鮮舞踊が笑われているところを見てしまった気持ちや、北朝鮮からミサイルが飛んだ日には小学生の弟は集団登校になるとか、それでも父親はまだ自分が住んでいる国にミサイルを飛ばしてくる国のことを祖国と呼びなさいと言ってくることとか。
14歳なんてただでさえホルモンによって気持ちも頭もずっとぐちゃぐちゃなのに、そこにアイデンティティという課題もプラスされるなんて。
最後には朝鮮舞踊の学校対抗の大会でのステージがかなり長尺で流れる。私はなんでかわからないけどここで自然と泣いてしまった。このステージは踊りの中に種に水をやり、そこからやがて綺麗な花が咲くというメッセージが込められており、練習中はその物語を表情で表現できていないと怒られていたソヒが、その本番ではしっかりとメッセージを会場に届けるような演技をしていて、アイデンティティ・クライシスに陥っていたソヒがそこから少し自分自身や周りの環境を含めて今の自分なんだと受け止められたように見えたのだ。
パンフレットでは振付を担当された金英蘭さんと演舞の指導をされた黄裕順さん、金素那さん、金鮮麗さんの対談があるのだが、このステージができあがるまでを知り、また涙した。

ちなみに乾物屋の店主としてソウジ・アライが出てくるのだが、どこかで見たことあるなぁと思いながら家に帰ってパンフレットを見て、apple TVで配信されている『PACHINKO』だと気付いた。

帰りにジュンク堂でずっと読みたいと思っていた『在日朝鮮人 歴史と現在』を購入したのでこれから読みたい。

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日記

先週は『急に具合が悪くなる』を観て、私はとても好きだったけど、まだ感想を書けていない。自分の中でもう少し揉んだり観察したりしてから感想として出力したいと思っている。

最近、自分が勉強したり調べたい、知りたいことが一つの問いとして言語化できてとてもスッキリした。この間、人にその話をした時もとても楽しかったし、嬉しかった。
仕事の傍らなのでそんなにすぐに形にしたりできないと思うし、そもそも形にすることも目的ではないのだけど、ゆっくり時間をかけてこの問いを深めていきたいと思っている。
それには平和で言論と表現の自由がある世の中が絶対に必要なので、主権者としてできることもやっていきたい。

 

『戦争みたいな味がする』『ソウルの春』『1987 ある闘いの真実』『ワンダーボーイ』感想

久しぶりの感想ブログ

戦争みたいな味がする
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コリア系アメリカ人の著者が、母との主に食にまつわる記憶を振り返る中で浮かび上がる戦争、移民、人種差別などのトラウマを丁寧に書き上げた回想録。
柚木麻子さんなど好きな著名人たちが書評を書いたり推薦していたので、随分前から積読に入れていたのだけど、ようやく読むことができた。

母の記憶の中に出てくるトラウマの中には、在韓アメリカ軍基地周辺でのものがある。韓国、ひいては朝鮮半島とアメリカとの関係性は、済州島四・三事件にまつわる点での知識しかなかったが、この本を通して両国間の従属的立ち位置がもたらす市民への苦しみを知ることができた。そして当然、その源流にはかつての日本による植民地支配が存在する。時折出てくる日本にまつわる記述を目にする度、この本を通して描かれるトラウマと自分たちの国の歴史は密接に繋がっていると痛感させられた。

また、母の統合失調症についても書かれているのだが、その中で統合失調症が生物学的疾患であると同時に、社会的疾患であるという研究も紹介されており、統合失調症について浅い知識しか持ち合わせていないがこのことは驚きだった。

この本の中の母と娘の関係性は自分のそれとは全く違い、母と娘の間にある強い絆をもとに終始描かれる母との記憶は終始相手への思い遣りに満ちている。だからこそ、垣間見えるトラウマの記憶に心がずんと重くなる。

読むのに気力は必要だったけれど、一度読み始めると止まらなくなる一冊だった。

 

ソウルの春 / 1987 ある闘いの真実

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なぜか続けて2作も観てしまい、案の定落ち込んだ。決して日本も無関係ではない歴史の映画を観て、落ち込むなどと言うのもまた無責任で他人事すぎるのかもしれないが。

『ソウルの春』は後に光州での民主化デモを軍隊を用いて強引に鎮圧した全斗煥がどのようにしてクーデターを成功させたのかを描いている。後にそのような凄惨な事件を自国民に対して起こした人々なのだから全員悪意の塊のような集団なのだろうと思っていたら、全斗煥の周りの人間は意外とクーデターに当初懐疑的であったり反対したりする。しかし全斗煥の口車に乗せられたり、自分のプライドや保身のためにそこから降りられなくなってしまい、クーデータに加担していく様が何より醜悪だと思った。

日常生活の中で、悪意があるだけマシだと思ってしまうことがあるが、この映画でも同じことを思った。

『1987 ある闘いの真実』はソウルの春の7年後、拷問中の大学生の死を隠蔽しようとする政権や警察と、真実を伝えようとする人々の話。
大学生の拷問死が隠しきれないと判断した途端、尻尾切りとして刑務所に送られる2人の刑事。彼らと彼らを尻尾切りした治安本部対共捜査処の上司たちの面会の様子や他の弁護士との面会などの内容から、看守は他にも容疑者がいることを察知する。けれど、面会の記録を取ろうとすると、対共から睨まれ暴力で止められてしまう。
そこで、刑務所にいた元記者の協力のもと、こっそりと作成した面会記録の調書の内容を記事にし、それを看守、看守の姪を介して外に持ち出すシーンがある。そして外に持ち出された真実は対共の妨害を逃れて、明るみに出る。
このシーンがふつうの人々の良心や民主主義への希求がつないだ襷リレーのように思えて、自分がここにいたらリスクを承知でこの襷をつなげるだろうかと自問自答した。

あと驚いたのは最後、デモに参加していた大学生のハニョルが催涙弾の直撃を受け、鼻や耳から血を流した状態で仲間に引きずられていくシーン。あのシーンは実際のハニョルさんの報道写真をオマージュしていたもので、観終わった後にそのことをしった。エンディングでは実際の報道写真も映され、当たり前だが改めてこの映画のなかの出来事は私が生まれるたった5年前の、隣の国であった出来事なのだとこの時痛感した。

ワンダーボーイ

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『ソウルの春』、『1987 ある闘いの真実』に続いて、1980年代韓国の軍事独裁政権下を舞台にした小説を読んだ。
ある日、交通事故で目の前で父親を亡くした少年は、その経験がきっかけとなり人の心が読める超能力を得る。軍事政権下、その能力は権力によって利用される。そこから逃げ出した先で出会った人々との関わりを通して、父を亡くした喪失と向き合っていく話。

父亡き後の世界を生きる少年の出会いの中で、軍事政権による凄惨な拷問を巡る様々な人のトラウマが描かれる。物語が進むにつれ明かされるヒソンやジェジンのトラウマ。『1987 ある闘いの真実』を観た後だったから、拷問のシーンは映像で鮮明に頭の中で立ち上がってきた。報道の自由が制限されていた時代に、リスクだと分かりながら隠れて政治犯として刑務所にいる人からの言伝を報道まで伝えた人の姿もまた『1987 ある闘いの真実』と繋がる光景だった。
そのようにして『1987 ある闘いの真実』と同じ時代を描いたこの小説だが、至る所に星や宇宙の話が散りばめられ、少年の父を失った絶望と孤独が、夜の星空の美しい情景を通して伝わってくる。そのような叙情的な文章が印象的で、映画の終始仄暗い雰囲気とはまた異なった方法で軍事独裁政権下を描いている。

夢中で1日で読み終わってしまったけど、いざ感想を書くとなると難しい。面白くなかったわけではない。とても面白かった。

時代の出来事を中心に悲しさや憤りにフォーカスを当てたのが『1987 ある闘いの真実』だとしたら、こちらは愛する人を亡くした人が持つ喪失にフォーカスを当てている。喪失の物語なのに悲しすぎないのは、前述の叙情的な描写だけでなく超能力を持ったというSF的設定や、少年を政治的に利用しようとするクォン大佐や同じ超能力を持つイ・マンギ、そして双子などのキャラクタ設定のおかげでもあるのかもしれない。

 

ひとにはひとの乳酸菌 ひとにはひとの感情

少し前から自分は共感に重きを置きすぎているのではと思い、「わかる〜〜」という相槌を少し抑えるようにしている。自分自身の共感偏重さに気づいたきっかけは、アンジュルムの『泣けないぜ…共感詐欺』。サムネのかみこがかわいいので、ぜひこのままクリックして最後まで聴いていってください。

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強引なシンパシー ノれないと損らしい
ひとりひとつの人生に ひとりひとつの感情

という歌詞からわかるように、この曲は共感を求めてくる周囲に対して例え孤独となろうとも自分の感性は自分で守れよという、茨木のり子の詩を彷彿とさせるような(厳密なことを言えば違うと思うのだが)自分自身の琴線や感性のあり方について歌っている。

私は、この曲に出会うまで周りも自分と同じだと思っていた。だから少しでも"共感"する部分が、ほんの少しでもあれば反射的に「わかる〜〜」と首を何度も取れるのではというくらい上下に振っていた時期がある。

でもそれって本当に分かっているんだろうか?
そしてそれって本当に相手にとって求めている、不快ではない相槌なのだろうか?

という問いがこの曲に出会ってから私の中で爆誕することになる。

"共感"という自分の中でも大きな軸であった概念が揺らぎ始める。

子供の頃から私は物語の中にたくさん感情移入をして、なんとかここまでやってきた。感情移入をして、キャラクタと自分を重ねることで自分を奮い立たせたり慰めたり、そうしないと乗り越えられない時間がたくさんあった。

新卒の就職活動で某大手出版社の面接官から「あなたは共感とそれのための場をつくりたいんですね」と言われたことがある。その時はそうなのかくらいで思ったが、たまに思い返すくらいには自分の中で大事な言葉になっていた。

物語のキャラクタへの感情移入と、目の前の生きている人間への共感がだんだん自分の中でも曖昧になってしまっていたのかもしれない。
相手も喜ぶだろうと思っていた部分もあるし、そもそも『分かる』という行為の解像度が低かったこともあって、私は「わかる〜〜」を連発する人になっていた。

でもそんなある日、『泣けないぜ…共感詐欺』の歌詞を見て思うのだ。

「あれ、もしかしてみんながみんな、共感を求めているわけではない…??」と。

自分自身に目を向けてみて、どうして共感を欲しがるのだろうと思ったところで、それは1人だと心細くて、自分1人の気づきや感情に対して何かの裏付けが欲しかったのだと分かったところで、果たしてそれは健全なのだろうかと疑問に思った。

自分の感情に対しては、何の裏付けも同意も必要ないはずだ。自分自身の感情は例えこの世でたった1人しか抱いていないものであっても、自分自身の感情であり、それ以上でもそれ以下にもならない。

私は自分だけ思っていたらどうしようと不安になることがしばしばある。どうしようと思ったっところで、どうしようもないし、何に対して不安になっているんだろうと客観的に考えれば気づくはず。きっと心のどこかで不特定多数のわからない他人の目を内面化して、そういう顔のない他人から何か言われた時に、自分一人の感情だと言い返せないけど、他の人がいたら「あの人もこう言っている」と言い逃れできると思っているのだ。

それではあまりにも自分の感情が可哀想だし、自分の感情や言葉に責任を持っていないことになる。自分の言葉に責任を持っていないのは、私の中ではダサい姿勢に入る。ダサい自分でいたくない。

共感を求める力という点では、最近気になって購入したもののまだ読めていない『物語化批判の哲学<わたしの人生>を遊びなおすために』を読んでまた考えが深められそう。

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確かだゲイで言っていた「ひとにはひとの地獄」という言葉がすごく好きで、これをモットーにここ数年は生きてきたところもあるというのに、「ひとにはひとの感情」に気づけなかった自分の幼さに少し悲しいけど、このタイミングで気づけてよかった。

東京生活10年目を迎える&『スイマーズ』感想

私は関西出身で、この春に上京10周年を迎える。

先日久しぶりに西新宿に用事があり、ふと椎名林檎の『青春の瞬き』を聴きたくなってすぐ再生ボタンを押した。
私にとって東京事変と椎名林檎の音楽は、上京してからの時間を支えてくれたものだ。
今の私は、自分の政治的思想から彼女彼らの新しい音楽をどうしても聴けなくなってしまったのだけど、過去の記憶と紐づいている曲たちは思い出のほうが勝るのかまだ時折聴いている。

あの人たちの音楽が私に教えてくれたことは清濁併せ持ちながら生きていくしかないという、ある種の諦めを受け入れることだった。それはネガティブに聞こえるかもしれないけれど、私にとっては100%正しいもので満たされていなくても自分の人生を寿いで良いのだという意味だった。100%正しく、この世に貢献できていないと生きていて良いわけがないと自分に対して異常な潔癖を持ち合わせていた私を救ってくれた。多少の傷や後ろめたさも飲み込んで受け入れて生きていけと、真正面からパンチしてくれた。

私は関西出身だが、母親は関東出身なので家での会話は関西弁は100%ではなかった。家庭外の環境で学んだ関西弁が母親に通じなくてもどかしい思いをしたこともあった。友達の両親は地元出身の人が多く、友達の両親同士のネットワークがすでに築かれていて、当時まだ珍しかった共働きかつ関東出身の母親はそのネットワークから少し遠いところにいた。そのネットワークは時折子供にも波及してきて、同級生の輪に入れないこともしばしばあった。友達の家にあるたこ焼き機が我が家にはなかったり、祖母が作る関西風のうどんが家では食べれなかったり、母がその土地出身ではないことで子供の頃から自分もこの土地に疎外感を抱いていた。

東京に来てしばらくの間は関西に帰りたいと思った時もあったけれど、帰ったところであの場所は本当に私の故郷なんだろうかと言われるとあまり土地に対しての愛着がなかった。強いていうなら、多くの時間を過ごした祖父母との思い出があるくらい。

だから故郷に対して強い思いを抱く人は私とは異なるという点で関心を持ってしまう。

スイマーズ感想

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最後の章が特に第三者の語りで物語が進み、感情が挟まれない写実的な描写がとても良かった。そのことによって、彼女と父親、そしてあなたとの間に確かに存在した記憶が示す喪失、現在、そしてやがてくるであろう未来を読者はそこから見出す。

また、彼女の記憶の所々に戦争の傷跡が見られる。それは強調されることもなく、淡々と語られる。そのことが逆に日常生活はいつでも戦争に姿を変えてしまうのだと思わさせられる。

 

Pachinko感想

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ちょうど今、Pachinkoをapple TVで見ている。原作はすでに読んでいるが、ドラマはまた原作と違った物語の進み方で面白い。映像も美しいし、何よりそれに合わせた壮大な音楽が製作陣の意気込みを感じさせる。

まだSeason2までしか発表されておらず、Season3も見たい。自分の国がやってきたこと、遺したものから目を逸らさずに。

文フリをおやすみしたこと

本日開催予定だった文学フリマ東京に出店予定でしたが、4月から体調が低空飛行を続けており末には自力で上がれないくらいの状態でお休みしました。
本当は昨年12月に行った釜山の旅行記を出したかったのですが、文章自体は書けてもそれを印刷できる体裁にして販売するための様々な手順をするには、今の自分を鞭打つしかなく、ただでさえ仕事で鞭を打っているつもりなのにこれ以上の鞭打ちは耐えられないだろうなと諦めました。
当日も朝から体が重く(前日に運動していたからかもしれない。運動する気力はまだある)、本当は会場へ行かないつもりでいたのですが、パートナーが行ってきたら気が紛れたり気力がもらえるかもという言葉にうまく乗せられて会場へ。出店できなかった自分を責めてしまうかなと思ったりもしましたが、やはり会場の空気を吸えば少し元気になって次こそは新刊を出すぞという気持になれました。パートナー、ありがとう。
会場の滞在時間は1時間もなかったのですが、以前から気になっていたり、毎回買わせてもらっているスペースへ行き、新刊を買うことができました。また、チキラボのスペースではいつもラジオを聞いている荻上チキさんご本人がいらっしゃり、ラジオを聞いてますと伝えられたのも嬉しかった。
帰りは最寄駅のモスバーガーでお昼を食べて帰宅。


山や公園など自然があり、人が多くないところには出かけられるけど、人が多いところには長時間いられないことを最近ようやく受け入れつつある。
あとは、1ヶ月のうち1週は何も予定がない週末を設けないとガス切れしてしまうこと。ランニングや山に行くことを始めてから少し体力がついたからか、最近すこし飛ばしすぎてしまっていた。
もう若者じゃないんだなと思うことが増えたけど、それでもまだまだ自分の扱いには成熟しているとは言えないんだなと思う今日この頃。

本日購入した本はこちら

文学フリマ購入品と無料配布

右上から
『SNSで起きたいつもの「リベラル」争奪戦』社会調査支援機構チキラボ
『ソウルの街から聴こえてきた音楽』『息継ぎの練習』THISTLE DOWN BOOKS
『リーン・インにまたね』小澤みゆき
『15人が語る、最初のZINEの話。上手さより、まずはあなたの気持ちが知りたい。』櫻井朝子編

日記

頭の中でずっと何かを考えてしまう。子供の時からこれはずっと癖としてある。というか、そうじゃない人っているのか?ともいまだに思っている。
頭の中では文字がずっと右から左へ流れていく。それは私の思考。
ぐるぐると存在しない終着点を求めて下にずっと渦を巻く。

心を病んでしまった父親は、元気だった頃海外への憧れをずっと抱き続けていた。
それは幼かった私にも伝わるほどに。
今は、自分が父親と同じ顛末を辿るのではないかということが怖い。