『隣の国の人々と出会う』と『すべての、白いものたちの』を続けて読んだ。
『少年が来る』は紙の本で読んだのと、小説の要素が強かったので慣れればそのあとは一定のペースで読めたのだけど、『すべての、白いものたちの』はkindleで読んだのと詩の要素が比較的強かったためか読み進めるのが少し難しかった。
生まれてすぐに死んでしまった姉の生きたはずの人生と、その道から伸びている自分の人生。一度壊滅的な攻撃を受けてそこから恢復した街と、一度死んでしまったけれど自分の生を捧げることによって再び存在を取り戻す姉、ふたつの存在が重なる。残された者たちは、失ったもの、この世を去ってしまったものとどう向き合えば良いのかを辿っていく。
一番好きだったのは『魂』という章の一節。
壊れたことのない人の歩き方を真似てここまで歩いてきた。繕えなかったところにはきれいなカーテンをかけて、隠してきた。訣別と哀悼は省略した。今までもこれからも、壊れたところはないと信じてきた。
だから、彼女にはいくつかの仕事が残されている。:
嘘をやめること。
(目を見開いて)カーテンを開けること。
これを読んでいた時は、ここでの彼女と姉の間で行われるやりとりに単純に胸を打たれたのだけれど、『隣の国の人々と出会う』を読んでから再びこの一節を見ると、これは韓国の現代史に対しても語りかけているのではとふと思った。
『隣の国の人々と出会う』で済州島4.3事件や朝鮮戦争中に行われた虐殺の真相が長い間隠され、報道規制が行われてきたことに関して歴史家の言葉を引用し以下のように書かれている。
哀悼、追悼が禁止される様子を、韓国の歴史家、韓洪九(1959〜)は「死を殺した」と表現する。
この死を殺した状態での抵抗や恢復に大きく貢献したのが詩や小説であることを踏まえると、『嘘をやめること』の真実味がさらに感じられる。
『隣の国の人々と出会う』の中でもハン・ガンさんの作品は何作か登場する。
そもそもこの本のシリーズ『あいだで考える』は、今回の翻訳というテーマにとてもぴったりだなと改めて一番最後のページの創刊のことばを読んで思った。
私がそうであるように、物事が白黒でない状況を白黒はっきりさせたいと思う人は多いのではないだろうか。家でパートナーと話していて日々感じることだ。理系分野出身のパートナーは文系学問のことをはっきり白黒つけない学問と思っているようだが、もしその通りなのだとしたら今起きている分断はもっと浅く、あるいは存在しないのではないかと思う。
あいだというのは白と黒で言えば、グレーのグラデーションにあたるだろう。そのグレーのグラデーションの中に留まるにも忍耐力が必要だ。ネガティブケイパビリティという言葉に表されるように。
翻訳というのはそもそもその中で揺れている言語どうしに橋をかけること、つまりとてもこの忍耐力が必要となる。
例えば、5章『사이 サイ』の中で出てくる「雪脚」という言葉の翻訳について書かれた箇所がある。雨脚は日本語にも存在するが、韓国語には「雪脚」という言葉も存在するそうだ。雪が多く降っている様子を想像するけれど、脚という言葉がつくことによってより雪がひたむきに強く、真っ直ぐ地面に向かっておちていく様子が浮かぶ。
けれど日本語にはこのニュアンスをぴったり表現する言葉がないからいつも「激しい雪」などでなるべく近い言葉を選んで翻訳するそうだ。ニュアンスまで完全に訳しきれないことにもどかしさを感じつつ、いつかいい方法が見つかるかもしれないからとそのことを課題として大事に持っておくそうだ。
はっきりさせたいという気持ちもわかるが、このように今ある最善を尽くしながらもっと良いものを探ることも地道に続ける心の持ちようは、羨ましく、私もそのようにありたいと思った。
今回、この本を手にとったのは文芸の翻訳に興味があるのと、『少年が来る』を読み始めてから改めて自分が韓国の現代史を知らないことに気づき、現代史を知りたいと思っていたからだ。
そのうえで、本を読み終わり、今このタイミングで読めてよかったと思う。韓国語の言語自体にもさらに興味を持ったし、現代史に関してまだ知らなかった側面を知れたり、戦時中や戦後、韓国の詩を翻訳した日本の女性詩人の存在を知ることもできた。